Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

C言語学習 第2&3回目 今日買った本など 平成31年3月30日(土)

C言語学習 第2&3回目 今日買った本など 平成31年3月30日(土)

 

C言語学習 第2&3回目。やはりスクールに通う方が、学習が進みますね。

20年間進まなかった学習が少しずつですが、進んでおります。

<学習した内容>

変数:変数というのは、ハードウェアを抽象化した概念で、メモリを「倉庫」に例えるなら、変数というのは「箱」にあたるものだという。箱がたくさん並んでいるだけでは、何が入っているのか分からない。だから箱に名前を付ける。これを「変数の宣言」という。たったこれだけの事を、実感とともに理解するにも20年かかった。結局、本で読んだだけだと、その時は理解していても定着せず、実際に体験して初めて身に着いた。学費は決して安くないが、人生は一度きりと考えれば、価値のあることにお金を使うべきだと思う。死ぬときに大金を持っていても仕方がないし、10万円、20万円を節約しても、死ぬ間際には意味のない行為(でも、生活的には身を切られる思い)。

変数の初期化:変数を宣言すると同時に、値を代入すること。コードが簡潔になり、代入忘れを防ぐ効果がある。

・代入演算子

・const修飾子:変数が随時変更可能なのに対して、こちらは定数みたいのもの。

マジックナンバー

演算

・インクリメント:ループの時に使う。

・ビット演算子:2進数⇒10進数

・デバッガの利用。必須のスキル。

 

<今日買った本>

ジェイムズ・ミラー『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』(筑摩書房、1998年)

*M・リラの『シュラクサイの誘惑』で取り上げれていた伝記的な研究書とのこと。「ニーチェの弟子」たるフーコーの著作は、彼の生き方と密接な関わりがあるものだから、この本はさしずめ「ポストモダン版『この人を見よ』」だと言われている(M・リラ・上掲書、161頁)。『この人を見よ』はニーチェが自分で書いたのだけどな。

大学図書館にもあったが、借りて読むと読みとおしにくい本だと思った。それでも読みたいと思っていたが、ちょうど古本で1000円なのを見つけて、購入しました。天がこれを読めと言っているようなタイミングだ。長く生きているといろいろなことがあるな。

 

デビッド・グリフイス、ドーン・グリフィス『Head First C 頭と体で覚えるCの基本』

オライリー・ジャパン、2013年)

認知科学や教育科学の成果を踏まえ、ビジュアルで、スクラップ帳テイストに学べるコンピューター科学系のシリーズの一冊である。ちょっと高いから買うのをためらっていたが、フランクリンの言葉に、「知識に関する投資は、常に最高だー!」とかいうのがあるらしく、それを心理的な後ろ盾にして購入。

もちろん、カーニハン、リッチーの『プログラミング言語 c』や岩波の情報処理入門コースの『C』も持っているが、こっちの方がアメリカのテキストっぽくて、おもしろそう。

 

仲正昌樹氏『現代思想の名著 30』(ちくま新書、2017年)

*仲正氏によるポストモダン思想のブックガイド。自分は昔から現代思想系には飲み込まれなかった。別にそれでいいのだが、知らないと思想の幅がないような感じがしてきた。以前に持っていたフランス思想系の本はほとんど捨てた。今さら、こんなおっさんになって「ポストモダン」はないだろうが(いや、ポストモダンの紹介者らはもう高齢者だが・・)、少し興味が湧いてきたので、購入。「文化的他者論」あたり、ああいかにもっていう感じだ。「他者」「他者」「他者」。「他人」ではなく「他者」。レヴィナス、サイードスピヴァク、バトラー。うーん、どうでしょう。

 私の先入観で言えば、例えば独我論と道徳原理論ととぼけたキャラで高名な永井均ルサンチマンの哲学』(河出書房新社、1997年)の中で、「E・レヴィナスの思想なんかも、(略)弱さを武器として闘わざるをえない立場からする世界解釈の原理論ともいうべきものが、そこには示されています。絶対的な弱さの露出が隷属を拒否する力になるはずだ、いや、なるのでなければならない、という信念とも祈願ともつかないメッセージが、そこに読み取れます」(28頁)。

この言葉に影響を受けて先入観を持っていたから、思想系の大学院であんなにレヴィナスが影響力をもっているなんて知らなかった。なんとなくウェットな感じの持ち出され方。苦手だな。

それに対してレヴィ=ストロース、リオタール、ネグリ/ハートのあたりは興味があるな。社会理論的な趣があるからだろうか。少なくとも個人の内面的な被害者意識からの糾弾言論とはちがうものは、現代思想系であっても興味が持てそうだ。

 

『パソコン完全ガイド 10年使える最高のパソコンがわかる!』(普遊舎、2019年)

*そろそろパソコンの買い替え時期。10月の消費増税前までに買うべきか悩んでいる。お金の問題もあるから。普段この手の雑誌を買うと損した気分になるので買わないが、大きな買い物をするのだから、情報を取って、納得のいく買い物がしたいと思い。情報のために680円ぐらい使った。

 

 

 

地銀の口座を解約してきた。ー平成31年3月25日(月)

地銀の口座を解約してきた。

 地銀の口座を解約してきた。

「地銀は「構造不況業種」なのか?」という過去記事は、何故か閲覧数の多い記事であるが、「地銀は「構造不況業種」なのか?」にちっとも答えずに、身の回りの感想程度のもので恐縮である。おそらく地銀関係者あるいは就職を考えている人たちが見てくれているのだろう。まあ記事としては、私などはもっと不安定な世界を生きているので大丈夫だという励ましのメッセージなのであるが・・・。

 

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先日、平日が休みだったのを利用して、もう使っていない状態の口座を解約してきた。これも断捨離の一環であることと、「休眠口座」の扱いが面倒臭くなるとかなんとかなので、もう使わないから解約するのである。

 

<解約理由>

解約時に理由を尋ねられたところと、そうではないところがあるが、せっかくだから書いておこう。

1つ目の銀行:大学時代に敷地内にあることから、口座を作った。もはや活動範囲が異なるので、行くこともなく、解約した。

窓口の女性は、いかにも地銀らしいい清潔感があり、ややエネルギッシュなきれいな人で好感が持てた。保険の無料相談の案内をしてくれたが、平日なので行けません。

そう。平日には無理なのです。休日にやっていたら、利用者が増えないだろうか。でも働いている人に負担がかかるから、反対だろうな。でも私がサービス業に勤めていた時は、土日祝関係なかったよ。

 

2つ目の銀行:小さいころから、近くにあったのでバイト代とかの振込先として親が作ってくれたもの。この当時は口座の作り方も知らなかった。思い出があるのだが、利用することもない。いまはネット銀行があるもんな。

 

ここの窓口は人数が少なくなっていて、すべて女性の職員だった。待遇はどうなのだろうか。対面のサービスだし、お金に関わることだから、しんどいこともあるだろう。

 

おじいさんも、休眠口座云々の不安から解約しに来たと係員に言っていた。休眠口座の手数料系の話が不安だからだと思う。詳しくは知らないが、私も一緒。

 

3つ目の銀行:これは一時働いていた職場の給与振込先として作らないといけなかったから、作っただけ。ほぼ使っていなかった。特に思い入れなし。でも時間がかかった。

 

 

これで、地銀の口座はもうすべて解約した。地銀の方が見ていたら、失礼かもしれないが、特に自分として地銀に口座を持つメリットがないから、解約させていただきました。

 

 

日経新聞 平成31年2月20日および21日:「地銀波乱」(上)(下)

日経新聞を読んでいると、地銀の記事が結構出ている。社会に出て、好きな職業をしている人はごくわずか。残りの人は、煎じつめれば、お金のために働いている。それならば、銀行に就職しておくんだったと思うことがあるだろう。だって、お金のことには詳しくなりそうだし、人の金銭事情だって多少なりとも詳しくなるのだから。

 

記事にもあるように「地元では自治体と並んで安定した職場の代名詞として、かつて優秀な人材の受け皿」となっていた。ところが、いま人材流出に喘いでいるらしい。

流出できるのだからうらやましいが、残った人は残った人で、他の人が去ったのだから経営の中枢に行くのだろうか。だとしたら、貴重な経験となるだろう。

 

1カ月前の古い日経の切り抜きだが、社会人となった今読むとおもしろいので紹介しておきたい。でも、前回記事に続いて申し訳ないが、明日の仕事のために一旦寝ます。「おやすみなさい」してから、また書きます。

 

2月20日(水)「人材枯渇の危機」

地方銀行が人材難に揺れている。地元では自治体と並んで安定した職場の代名詞として、かつて優秀な人材の受け皿になっていた」で始まる記事。

「地銀は地方出身のエリートを将来の幹部候補として安定的に採用し続けてきた」。「地元の県庁やテレビ局と並んで有力な就職先であった」。

でもいまは地銀そのものの魅力が低下しており、優秀な人材が他に取られるという焦りがあるらしい。

地銀や県庁など安定した就職先というイメージがあるが、若い時に魅力を感じる職場ではないのかも知れない。

いまの経済は乱世である。乱世には乱世に活きる人材がいるのだろう。経営が厳しくなっているというが、世の中厳しい所はもっと他にもあるし、死にたい思いをしている人はたくさんいるのである。

社会的背景に、低成長や人口減少などの構造的な問題があるとはいえ、地銀という優良なシステムを活かしきれない自分たちにも問題があるのではないのか。

 

会員限定記事らしいが、ほんのさわりは読めます。

あるいは、日付を参照し、図書館で見る手もあります。面倒くさいけど。

www.nikkei.com

www.nikkei.com

 2019年4月18日(木)9面金融経済欄「地銀の6割 10年後赤字」

資金需要が減少すると、地銀の収益を圧迫するとのこと。

日銀としては、マイナス金利政策の影響を認めつつも、人口減少や地方経済の衰退や過当競争(?)などの「構造要因」であると見ているという。収益力向上には経営統合や提携が有効だとしている。

 

なるほど確かに地銀の名前が変わる現象は、私に身の回りでも見られる。

でも、経済成長や資金需要はどのようにすれば引き出せるのか。いまの自分に思いつくのは下の記事みたいのことだ。まあ私の場合、素人談義で、公共事業があった場合、どのようにその資金需要が地銀と結びつくのか知らないし。

いずれにせよ、自分の家があり、子育てができて、ボーナスがあり、車が買えて、退職金があるのだったらいいではないか。私などはこのすべてがないのである。逆に危機感が出て大きく成長するかというと、そんなこともない。ただただ苦しいだけ。嫌なだけ。

 

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大森曹玄翁の大河 六 ミシェル・フーコーとの問答

大森曹玄翁の大河 六 ミシェル・フーコーとの問答

 「フーコー博士との問答」

先日、本屋に行ったら大森曹玄翁『禅の発想』が復刊されていた。

私は講談社現代新書に入っていたものを持っていたが、何か付け加わっていないかと思ってパラパラ見てみた。

 

すると「フーコー博士との問答」という小見出しが書いてあった。そうそう思いだした。凄い組み合わせだな(たしか吉本隆明氏とも対談していたはず。そっちの方は分かるのだが・・)と思いながらも、これまで何も書けずに来た。今も何も書けないのだが、とりとめのない駄文を自分のためだけに書いておく。

 

ミシェル・フーコーは、泣く子も黙るフランスの思想家である。私は高校時代に中山元フーコー入門』(ちくま新書)で知ったからスタートダッシュは良かったのだが、その後全く手つかずのまま現在まで来ているという情けなさ。しかもその『フーコー入門』も本棚のどこにあるのか分からなくなっている。あらま。(15分後ぐらいに見つかりました。あの断捨離を生き延びていたのだ。)

 

すごい組み合わせだと言うのは、わが国でフーコーは、「反権力の象徴」とも言うべき位置で語られているように見受けられるし、そのような陣営の人々によって積極的に受容され、出版されている。

 

他方、大森曹玄翁は大東亜戦争敗戦を受けて、名実ともに僧侶となった人物であり。その前半生は、人生の目標を山岡鉄舟に置き、頭山満に薫陶を受け、維新運動をして、幅広い知識人・人物・活動家と交流があった人物なのである

 

 

大森曹玄翁の『禅の発想』(講談社現代新書、昭和五十八年)

「私の僧堂(山梨県上野原の青苔寺)へ、二人のフランス人が訪ねて来ました」(164頁)。

 

一人は在日フランス大使館文化参事官、もう一人が「禅僧のような風貌の哲人」ミシェル・フーコーだったという(同頁)。

 

フーコーは挨拶を終えると曹玄翁に質問を浴びせたという。

フーコー:「ヨーロッパの学問、教育、社会的習慣すべてが”心と体は別”という考えだ。私の禅体験では(中略)、心と体は一つであった。この体験は間違っているか?」(164頁。(中略)した部分は、曹玄翁が花園大学の行事で忙しく、フーコーが参禅していたことを知らなかった旨が書いてある。)

 

曹玄翁は禅の伝統に則り、すぐさま肯定するのではなく、「答えの正否を確かめる質問」たる「拶所」(さつしょ)をしたという。その際、以下の問答がなされたという。

 

大森:「ヨーロッパの考えは誤りである。東洋の学問、就中、禅では心身一如である。あなたの体験は正しい」(164頁)。

 

フーコー:「ヨーロッパでは、”自然と人間は別”、人間は自然を征服する主体という考え方である。私の体験では人間と自然は一体だったが、これはどうか?」(164‐165頁)

 

大森:「人間が自然を征服するとは、人間の増上慢だ。ヨーロッパの考え方は、たかだがここ四百年の神を見失ったところから出た人間観に過ぎない。バクーニンが『神と国家』でいっているように、人間は神の座から神を引き摺り下し、替って自分が坐った。これは誤った人間中心主義である。そのために自然は汚染し、逆に人間が死滅に瀕するるような状態に今日陥った。そこで近代文明の誤りに気づき始めた一部の人ー生命科学者たちはしきりと”生態系”とい言葉を使うようになった。やはり人間も生態系の中において初めて生きられる存在であって、これが正しい学問であり、知識である」(165頁)

大森:「あなたの体験は正しい」(同頁)

 

このような問答があった後で、曹玄翁は「文明の転換の原理としての禅」を唱える。

 

フーコー博士ほどの人が、西欧文明に対する日頃の疑念を率直に口にし、文章に著わし、問いかけ、「文明の転換」を求めて東洋思想に近寄ってくることは、大変すばらしいことではないことではないでしょうか。つまり近代ヨーロッパの人間観、自然観、他をかえりみることはなく、長い間、独善を恣にしてきました。ところがフーコー博士のような著名なヨーロッパの哲学者によって、ヨーロッパの間違いが間違いとして、あえて指摘されるようになったのです」(165-166頁)

 

 

曹玄翁の見解には、「ヨーロッパ」とひとくくりにしているなどと批判があるだろう。

オリエンタリズムとかっていうのに乗っかってしまってる!」、「思想史的におおざっぱである!」「東洋という言葉は、西洋との対比でしかない!」、「フーコーの真意がどこにあるのか、もう少し確認すべきだ」というような批判がなされるだろうことはすぐに思いつく。

 

単なる「知識学問」から言えばそうなるのだろうか。

 

とはいえ、私は青白いフーコー主義者で反権力論を説く現代思想系の人々よりも大森曹玄翁の、剣・禅・書で鍛錬し、人生の目標を山岡鉄舟に置いて、戦前には維新運動、戦後には禅僧となった翁の人物に信を置く

 

 

 

禅の発想

禅の発想

 

 

追記:平成31年3月24日(日) 「M・フーコーと禅」( 『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ 知/身体』筑摩書房、二〇〇〇年、所収。219頁‐228頁)

  昨晩、上の記事を書いて、今日の午前中に大学図書館に行ってきたら、この本を見つけた。全10巻だったが、「身体」の話をしていたから、この巻を手に取ったらありました。まさかこの歳になってフーコーの発言録を読むことになるとは思わなかった。もう騒がしそうなものはいいのに。

 

「M・フーコーと禅」

<書誌的事項>

元々の記事はクリスチャン・ポラック氏により「M・フーコーと禅ー禅寺滞在記」というタイトルで、おそらく仏教書などを多く出版している春秋社のPR誌と思われる「春秋」の一九七八年・第197号に発表されたものであるという。

 

<来日経緯>

当時、ミシェル・フーコーは、コレージュ・ド・フランスの教授であった。フーコーはフランス政府の文化使節として、1979年4月日から29日まで20日間日本に滞在したという(219頁)。

フーコーは一方通行の講演よりも、対話を望んだという。このあたり崇められている存在でありながら、自分の目で確かめる姿勢を保持している。

そして4月23日から三日間、大森曹玄師が師家を務めていたと思われる山梨県苔寺で禅体験を積んだという。

 

フランスの大使館文化参事官のチェリド・ボセ氏と春秋社編集部とともに青苔寺を訪れたのだということ。

 

<対話の内容>

大森曹玄翁とのみ対話しているのではなく、「僧」や「修行僧」と書かれた人とも結構会話している。専門の僧ではなく、在家の「居士」と呼ばれる僧もいたかも知れない。

詳しくは、本書を見てもらうしかないが、私なりに気になった要点を記すと以下のようになる。

フーコー

フーコー:最初の来日についての想い出がほとんどない。それが残念である。

・日本という国は、外面上きわめて西洋と近い国であるが、同時に神秘的にも見える。

・仏教の哲学にも興味があるが、実践・修行・作法にも興味がある。

・自分の仕事はせいぜい100人ほどの興味を喚起できればよい。

ハイデッガーよりも名前が言いやすいから、広まったのだろう(笑)。

・「書いた時から、人は語ることの所有者ではなくなります。むろん、だれかがあなたを批判したり、あなたが間違っていると論じたりする場合、あなたのものでない考えとか表現とかをあなたに帰するような時には、あなたは言いたかったことを主張してもかまわないでしょう。でも、その他のばあいは、私の読者の自由は、絶対に尊重されねばならないと考えます」「言説とは、無限に変形しるう現実です」「ですから、書いた人間は、書かれたことの利用法に関して、命令する権利はないのです」(221頁)

  (以下、作成中)

 追記:(平成31年3月28日)「哲学の舞台」(『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ 知/身体』筑摩書房、二〇〇〇年所収、155‐183頁)

1978年4月22日に行われた演劇や仏文が専門の渡辺守章氏(放送大学でちらりと見たことがある)との対話「哲学の舞台」に、フーコーの禅修行の話が少しだけ触れられている。

渡辺氏が

「なんでも禅宗の寺に籠られるという話ですが、やはり、日本の宗教的実践における<身体>の問題があるからですか」(181頁)。

と問いかけたのに対して、フーコーはまず当時、彼が取り組んでいた課題の説明を通して禅寺に行く動機を語る。

「私が今行っている西洋世界における<権力の技術>、つまり<身体>ならびに<個人>を対象とする<権力の技術>の分析を通じて、私は、キリストの規律というものに、一般に西洋における<個人性>と<主体=主観性>を形成したものとしてのキリスト教に、重要な役割りを与えることになってしまったわけですが、そこで私としては、このようなキリスト教の技術と仏教の技術を比較できたらと思うわけです」(181頁)。

 フーコーは、キリスト教の修道生活は「仏教のそれのほとんど引き写し」であると主張するものの、近い出発点を持つ両者がなぜ異なる結果を生み出すのか比較したいというのである。つまり、キリスト教の修道生活は<個人性><主体=主観化>、仏教の修道生活は<日個人化>であるとフーコーは把握しているのである(181頁)。

 

そして、禅寺に行く理由として、①キリスト教の修道生活とは異なった結果を生み出す仏教の修道生活の「技術」が見たいということと、②「日本や極東」でこのような課題に興味がある人と対話したいからであるとのこと。

 

なるほど、フーコーが仏教の哲学もさることながら、習慣や作法も見たいと言っていたことの意味がより見えてきたが、いかんせんフーコーの「身体論」や「規律」「訓練」系の話、本でちらりと見ただけで、よく分かっていないから、掘り下げられないや。

 

<この対話から学べること>

・曹玄翁もフーコーも、「体と心が別物である」という見解への批判を通して、「身体」のことを考えていたこと。

・『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ 知/身体』には、フーコーらしく病院・性・権力などいろいろな主題の文章が収めれらているが、その中でもイラン「革命」の話が気になった。フーコーイラン革命ポーランドの「連帯」に対して支援活動をしていたそうだ(川本隆史氏『現代倫理学の冒険』創文社、1995年、「プロフィール●現代の倫理学者たち」欄参照。ごめん、他に本がなかったので・・・。)。

 

曹玄翁に対して想定される批判には、「東洋の範囲はどこまでか!西洋によって規定された「東洋」という概念に無自覚に乗っかってしまっている!」「西洋の克服を東洋などに頼るのは安易な発想だ!」というものが考えられる。範囲や境界線が明確でないからといって中心地や中心的な発想がないことにはならないと考えるから、地理的な批判は私は有効ではないと思うが、しかしイランという文化をどう考えればよいだろうか。ホメイニ氏によるイラン「革命」などを曹玄翁はどう考えていたのだろうか。このあたりの問題を考えるには、大川周明の方が良いのかも知れない。

 

この時期のフーコーに対してはマーク・リラが、ハイデガーコジェーヴェ、デリダフーコーカール・シュミットらの政治関与を批判的に扱った著作であり、かつ私のフェイヴァリットな『シュラクサイの誘惑』日本経済評論社、二〇〇五年)という本の中で、

「一九七八年にイラン革命が勃発したとき、フーコーはまたしても政治のなかに「限界経験」というセイレーンの呼び声を聞いてしまった。しかもこの呼び声は、結果としてこの国を壊滅させ、人民を無慈悲で狭量な聖職者支配のもとにおくことになったのである。その年の秋に、かれはあるイタリアの新聞の特派員として二度までもイランを訪れ、革命の「酩酊」や「集合的意志」の暴力的発露に狂喜しながら、その指導者たちの「政治的精神性」を褒めちぎった」(175-176頁)

 

と批判を加えているが、欧米人のイラン革命評価とは別に、自分なりの評価を確立したい。そもそも呉智英のデビュー作『封建主義者かく語りき』でも、冒頭にホメイニ師に対する「欧人女性記者」によるインタビューを引き合いに出しているいるのである(呉智英『封建主義者かく語りき』史輝出版、1991年。原著は1981年出版)。これは原著が1981年という「イラン革命」と近い時代に出版されたからというのではなく、「イラン革命」と「革命」の名で呼ばれている事件が、思想的に深い問題を投げかけているからである。自由・平等の道に、とりわけ個人の自由が進展するれば、それだけ社会が進歩したの言えるのかどうか。

 

途中になるが、明日からまた仕事なので、一旦休憩。

曹玄翁とフーコーが禅でつながり、もはや現代思想などには興味を失った自分が、この本と結び付いた。こういうときがうれしい。もっと書いていたい。思考がつながっていくのがおもしろい。こういうことを仕事にしたかったが、できなかった。

明日のために、生活の糧のために、もう寝ます。一旦休憩。こういう仕事がしたかった。

 

平成31年3月28日)

「禅の普遍性」

フーコーは対話の中で曹玄翁に、「禅の実践と仏教の信仰と実践の総体とを分つことが可能か否か」(224頁)と問うている。それに対し曹玄翁は「禅は仏教から出てきた」が「”禅”という名を捨ててもいい」といい、「私どもは禅を仏教の一部とは考えません」とも言う(225頁)。「からだと心とが一つになるという体験、自分と外の世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なもの」だからであるという。

曹玄翁が 「私どもは禅を仏教の一部とは考えません」と言っていたなんて、知らなかったなー。本当かいなー。

まあ無理に考えるならば、今日の「マインドフルネス」をどう捉えるのかというような問題にも、少しだけ感度を高めてくれるだろうか。

 

「東洋」について

曹玄翁も『禅の発想』で、また「僧」も『思考集成』で「東洋思想」と語っていたが、これは我田引水かも知れない。

対話が行われたのは1978年だと思うのだが、前述のM・リラの『シュラクサイの誘惑』

 では、1968年以後のフーコーの実践的活動についてカウンターカルチャー「ドラッグ、コミューン生活、、実験的なセックス」を賛美していた(リラ・前掲書、171頁)というから、神道儒教・仏教・道教・禅・老荘などの中でも、お堅い思想の方ではなく、体制に組み込まれないようなタイプの物の考え方やライフスタイルに接近していたのではないかな。だとすると、曹玄翁が目指していた方向とちがうのではないだろうか。まあ、もう少し考えてみたい。

(以下、作成中)

20年来の願いーC言語学習スタートー平成31年3月23日(土)

20年来の願いーC言語学習スタートー平成31年3月23日(土)

 

20年来の願いであったC言語の本格的な学習が、今日スタートした。

PC上のみならず、組み込み系にも強みを発揮するCを学ぶことでIoT社会に対応できる素養を身に付けたい。他の人にはびっくりするほどどっちでもいいことだろうが、私にとっては過去に決着を付け、未来に進むために重要なことなのである。

<本日習ったこと>

C言語統合開発環境Eclipse

・printf()関数

・#include <stdio.h>:STanDard Input Outputの略とのこと。

・main()関数

・変換使用

エスケープシーケンス

*"Hello, World!"なんて、自分ひとりでやった時は、何日かかったことか。しかもこれ以上前に進んだという記憶がない。やはり初心者の時に、まともな所で学んでおかないといけないなと改めて感じました。英語はこれがうまくいったパターンで、あまりお金をかけずに実務経験まで積めた。でもプログラミングは、まだまだこれからだ。

それとプログラミングの実例にはある程度数学的な知識が必要だなとも思う。

 

 

 

過去に決着を付けるといえば、この頃さまざまな物を買い替えた。お金を持っている訳ではないが、次の20年へ向けて買い替えるべきものが多い。今使っている小物や服は、20年ぐらい使っているものもあるからだ。

 

その一つに、キーホルダーがある。これなどは、高校時代からアメリカのアニメ「ビーバスとバットヘッド」のキーホルダーであったが、とても40近い大人の持つものではないと自分で思った。「ビーバスとバットヘッド」は傑作であり、英語の勉強にもなったのだが・・・。「ビーバスとバットヘッド」が相手にケツを見せてからかっているキーホルダーだ。いまも好きだが、例えば大人の恋愛で相手に見せられるものではないだろう。

 

新しい物は、高いものではないが、黒色でシックなもの。これでよい。

 

CDも買った。チャック・ベリーのベストだ。ギタースコアも買ったから、やはりCDも欲しい。Johnny B.Goodeを練習し、ギターショップで試し弾きし、一生物のギターを購入し、そのギターとともに孤独に死んでいくつもり(予定)。


Chuck Berry - Johnny B. Goode

 

 

昔はもっとパンクやスラッシュ・メタルよりだったが、いまは「古き良きアメリカ」みたいな音楽やファッションが好き。持っていないがハーレーやエレキギター(グレッチとかレスポールとかフェンダーとかの)良質なジーンズなど。思想とは別に個人的に楽しみたい。

 

 

 

 

プログラミング習得の「失われた二十年」ーC言語の学習のスタートを切るー平成31年3月16日(土)雨のち曇り

プログラミング習得の「失われた二十年」ーC言語の学習のスタートを切るー平成31年3月16日(土)雨のち、くもり

 プログラミング習得の「失われた二十年」

私は20歳ごろ、プログラミングに興味を持った。その頃、メジャーなプログラミング言語といえば、BASIC、C、PASCALFORTRANあたりだったと思う。JAVAなどは、(あくまでも素人の私的には)まだ出始めぐらいの印象があった。

当時、あのカラフルなiMacを使っていた私はCode Warrior(3万円ぐらいで高かった!)というソフトを購入し、MACでプログラミングをやってみたいと思い、『進め!コード・ウォーリア』などのパソコン書籍を購入したり、雑誌を購入していた。

"Hello, world"ぐらいは表示できた記憶があるが、順調には進まず、その後どうなったのかあまり記憶にない。書籍も処分し、夢も失くし、彷徨っていた。

 (私のパソコン遍歴については以前に記事を書きました。)

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また、竹内薫氏の『ペンローズのねじれた四次元』(講談社ブルーバックス)を読み、「ツイスター」とやらをコンピューターで表現してみたいと思い、アメリカの理数系の天才スティーブ・ウォルフラムが作った数式処理ソフトMathematicaを購入し(これもアカデミック・ライセンスで3万円ぐらいだった。一般のライセンス価格は30万円ぐらいする)、打ち込んで見たが、そもそもプログラミング言語も習得できず、高校数学も中途半端な所で終わっていた自分が、大学院レベル(なのか?)の物理やプログラミングなどできるはずもなかった。これも結局のところ自然消滅してしまった。若いうちに芽生えたいろいろな可能性も、人文・社会系の方に限定されていった。いまではそこからも見放されていった。ありとあらゆることから見放される日々・・・。

 

当時数少ないパソコンスクールに行って、プログラミング講座を受講しようと受付までいったが、入会前に個人情報をいろいろ書かされるのが嫌で、申し込まなかった。いま思うとそのまま入会しておけばよかった。また別の未来が待っていたかも知れない。

 

それから約20年ぐらい経った。小学校でプログラミング教育が必修化され(2020年より)、AIや自動運転、IoT、サイバーセキュリティーなど、プログラミングが必要とされるようになり、世の中も様変わりした。プログラミングは一部変人(失礼!)の趣味や理工系エリートの仕事のみではなく、重要なビジネススキルと認知されるようになった。

 

私は流れ流され、非正規で働くただの悲しいおっさんとなった。本当に流れ流された人生。悲しいことの方が多かった人生。いまも悲しいだけの人生。

 

でも生活のためにいろいろと考えないといけないから、キャリアデザインの一環として、あと数年はプログラミングを中心とした、ITスキルのさらなる習得に時間と費用をかけるつもりだ(その次はビジネス会計・数字・戦略的意思決定などを予定している。仕事があり、時間があり、資金が続けばの話だが・・・)。

 

そう考えて、昨年はWebデザイン(Photoshop,Illustrator,HTML,CSS,Javascript)を学びに行った。今回はC言語を学ぶつもりだ。

 

今日スクールの説明会に行ってきた。まだ申し込んでいないが、近日中に申し込み、スタートを切るつもりだ。

このあとにも別の件で研修を受講するから、気晴らしがないとやってられないと思い、ネットで予約して、とある場所にあるスペイン料理の店へ。1名でも行けるし、ポイントと合わせると予算の範囲内(実際に払ったのは500円ぐらい!)だったので、ここに決めた。

行って見るとやはり女性客が多い店。女性はカラフルな料理が好きだな。何だって俺はこんなシャレた店に一人でいるのだ。将来不安を抱えながら・・・。

 

 

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スペイン料理

 

C言語を学ぼうと思った理由

Pythonも候補だったが、私がC言語を学ぼうと思った最も深い理由は、この20年に決着を付けたいという気持ちだ。本当に未熟だった自分。未熟過ぎて笑えない。その自分にプログラミングに関してでもいいから、決着をつけたかったのだ。

 

マークアップのための言語たるHTMLよりも、一歩進んで本格的なプログラミング言語を習得したい。そして、今後のキャリアにつなげて行こうと思うのである。

だが、「えっ?でも、なんでCなの?他にもPythonとかRubyとかあるでしょ?」と訝しく思われるかも知れない。

 

キャリアのためとも言ったが、今回は転職したので、少し時間的余裕が出来た。就職のための突貫工事ではなく、もう少し根本的なところから学んでみたいと思った。私が20歳前後に出版されていた本には、結構C言語によるプログラミング例が載っていた。その頃の本で今も買える本もあるだろうし、少しだが手元に残っている本も活かせる。

 

それにCを学ぶ意義について、複数のサイトを見て見ると、ハードウェアと連動させる感覚が身に着くという意味のことが書かれてあった。最近の言語は、メモリなどを扱わなくてもうまく作動するようにできているが、Cはメモリなどハードウェアの使い方まで考慮に入れたプログラミングをするのに良いというような記述があった。だから、組み込み系に強いのだろうと思う。

 

私は、藤井聡氏らの唱える「国土強靭化」を、ITインフラなどのサイバー面でもやって欲しいし、理解したいから、組み込み系のことが分かるのも強みになるのではないかと思い、C言語を学ぶことを楽しみにしているのである(技術的に的外れなことを言ってたらごめん)。少なくともIoTには関係しているだろうから、生活に欠かせない家電とITインフラをより理解出来るだろう。

 

ITインフラがストップすると、日々の生活だけでなく、医療や福祉にも大打撃である。医師や医療・介護スタッフが出勤できなければどうするのか。雪ならば前日から泊まることもできるだろうが、突然の出来事ならばそうはいかない。

 

これだけITに対する依存度が高いにも関わらず、脆弱性(ぜいじゃくせい)がものすごいと思われるから、少しでも貢献できるようなスキルを身につけると同時に、市場価値を高める狙いもある。

 

もう独学だけでは限界。プログラミング習得の「失われた二十年」。

今までやってきたことの結果が見えるこの年齢。価値があると思えて、おもしろいと思える事に時間とお金を費やす。独学だけでは無理。

 

今年度の前半はC言語の初級を突破する予定です。