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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

鹿児島旅行 二日目 平成三十年八月三十一日(金) Trip to Kagoshima DAY 2

鹿児島旅行 二日目 平成三十年八月三十日(木) Trip to Kagoshima DAY 2

 

 

12時30分ごろに寝て、7時ごろに起きました。

水分補給して、朝風呂に行く。旅の疲れを取り、もう1日頑張るためには朝風呂が一番が効果的だと思う。みなさんも一度試してみてください。

 

そして、楽しみにしていた朝食。昔、節約のためにコンビニで買ったこともあるが、結局1000円ぐらい買ってしまった。だったら、バイキング形式のホテルの朝食に1000円使った方が楽しい。

1.朝食

朝食会場は13F。会場内は撮影しませんでしたが、窓の外に桜島が見えます。

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昨日、友人のおもてなしが豪華だったのもので、そんなにお腹は空いていなかった。加えて少しお腹の具合が心配だったから、いろいろなメニューを少量ずつ食べる作戦にした。これが成功。まず、ごはん、薩摩汁を食べて、オムレツ、ビーフシチュー、カレー、鶏飯、うどん、黒豚しゃぶしゃぶ、ヨーグルト、フルーツ、クロワッサンなどを味わった。

 

もう8時15分。荷物をまとめないといけないから、少し早めに、部屋に戻る。

一度着たものなどを、ビニール袋に入れて帰りの着替えなどを、リュックの取り出しやすい位置にしまい、9時になったので、友人と合流。昨日に引き続き、友人が車で迎えに来てくれました。ここまでしてくれることに感謝。最初は城山に行く。

 

2.城山展望台 Shiroyama observatory

 

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From the Shiroyama observatory, we can see Mt.Sakurajima and Kinko bay.

桜島がきれいに見える。感動していると、毎朝登山しているような地元のおじさんが、「そろそろ降ってきそうだ!」と足早に去って行った。確かに写真右の方から、雲が接近してきている。どんどん近づいてきて、どしゃぶりになった。ずぶぬれ一歩手前で、なんとか売店の軒先で雨宿り。友人とプロテインの話をする。

 

西郷さんの写真などを販売していたおみやげもん屋の小柄なおじさんが、我々が雨宿りしていた場所についても、ちゃんと簡易のビニール屋根を伸ばしてくれたので、これ以上濡れずに済んだ。ちゃんと対応してくれたおじさんに感謝。

 

 

3.洞窟

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西南戦争の際、西郷隆盛が5日間過ごした洞窟とのこと。

突発的な雨の後で、足元がぬかるんでおり、集中できなかった。

駐車場へ戻る際に、「せごどん」というおみやげ屋さんの女将に声をかけられて、店内に西郷関係者の写真が飾ってあり、子孫がどうしているのかなどの話をきかせてくれた。

ところがその後、そのお店にしか置いていない本(肥後評論社の西南戦争系の本)や「げたんは」(かりんとうみたいなお菓子)のセールスが始まったので、お暇乞いをして店を出た。

ここにしかない本には興味があったのだが、ブログでも書いている通り、本を増やしてはいけない時期なので、我慢した。

 

車中、友人によると鹿児島のガソリンスタンドの値段は、「XXX」のように表記されているとのこと。値段をライバル店に知られたくないからなのだろうか。地方によってちがいがあるようだ。

 

4.南洲顕彰館&南洲神社

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私が昔この記念館に来た時は「征韓論」の部分が残っていたか、あるいは修正されていたという記憶がある(まちがっていたら、修正します)。現在は、「遺韓論」という表記になっている。

大河ドラマで「西郷どん」がやっていることに関係があるのか、若い女性グループもいた。以前来た時は、街宣車が停まっていたが・・・(苦笑)。

 

Saigo Takamori Shrine

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南洲神社と南洲顕彰館の間には、西南戦争の戦死者の共同墓地がある。もちろん中央には西郷隆盛の墓石がある。ものすごく大きいのである。

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西南戦争を最後まで戦った人々の共同墓地。おみやげもの屋のおじさんによると、5~6年かかって集めたそうだ。おみやげもの屋さんの闖入には気をつけていただきたい。

 

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 墓地からは桜島が見える。戦死者は、桜島の方を向いているのである。時代が異なれば葦津珍彦氏もここにいたのかも知れない。

5.とんこつラーメン たけ家 Ramen Takeya

11時30分ごろ、ラーメン屋のたけ家に着いた。もうすでに一組待ち。

帰ってから地図を見てみると、友人の案内だからこそ行くことができた場所であって、一人旅であったら決して行くことのできなかったような場所だった。友人に感謝!

待ち時間の間、ネットビジネス関係の話をする。友人は私よりネットビジネスの才能があるようだ。というより、私は何もしていないのだが・・。

 

店内に入ると、老若男女が来店している。本当に次から次へと来店している。すごい。団地の近くだからだろうか?店内には、待ち時間に子供が遊ぶブースが設けられている。うーん、そんなに大きい店ではないのに、こういうことをしているのかー。

職業はちがうが、店づくりや改善している点などを見て勉強になる。

6.仙巌園 Sengan-en Garden

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仙巌園とは江戸時代初期(1658年)に島津光久(久光ではない)造られた薩摩藩主島津家の別邸である(パンフレットより)。入園料は1000円と少しお高めであるが、それ以上の価値がある。

 

14年前に来た時もそうだったが、受付の女性がかわいいことが特徴である。もちろん昔いた人とは別のひとであろう。やはり全国、全世界から観光客が来るのだから、美人どころを揃えているのだろうと、友人と話をしていた。

 

 

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雨が降ったり止んだり不思議な天気。旅行中だから、雨に濡れるのはいやなのでお土産もの屋さんい避難。「ぼんたん飴知っていますか?」と友人から聞かれたが、「私の地元でも駅などで売っている」というと驚いていた。このグミみたいなお菓子は、小さい頃から知っていた。包装紙のフィルムまで食べられるので、びっくりするお菓子だ。

7.尚古集成館

隣接した敷地にあるのが、島津斉彬らが近代化に尽力した姿を伝える尚古集成館である。江戸を中心とした歴史だけでは、幕末から明治維新の情熱は分からない。

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今回の鹿児島旅行で得たテーマは、「島津斉彬明治維新以後の政策論への影響」である。島津斉彬はもちろん有名な島津の二十八代藩主なのであるが、私はこれまで西郷隆盛などの武士の方に注目していた。斉彬はやや通好みのテーマであろう。幕末の歴史小説は、志士の活動が人気なのである。

だが、殖産興業等、彼が西洋列強の進出をこの薩摩という土地で(江戸ではなく)得た情報をもとに取り組んだ事業が、我が国全体に波及していくということを、自分で追跡してみたいのである。

西郷、大久保の政策論というものも、やはり島津の藩主から得た知識によるものも多い

のではないかということが今の「作業仮説」なのである。

禁欲していた本も、1冊だけ購入した。松尾千歳氏の『島津斉彬』(戎光祥出版、2017年)である。著者は尚古集成館の館長とのこと。大体、帰りの飛行機で読んだ。いまの自分にはちょうどおもしろかった。

島津斉彬 (シリーズ・実像に迫る11)

島津斉彬 (シリーズ・実像に迫る11)

 8.加治屋町 Kajiya-machi; birthplace of Meiji restoration

 加治屋町近辺は、西郷隆盛大久保利通をはじめ、明治維新前後に活躍した村田新八篠原国幹黒田清隆山本権兵衛東郷平八郎、黒木為楨、大山巌伊地知正治牧野伸顕らの誕生や生育に関係している土地である。本当にキラ星のような人物たちである。前から知ってはいたが、訪れたのは今回が初めて。

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維新ふるさと館のパンフレットで、詳細を確認して欲しい。

外部リンク「維新を歩くロードマップ」:http://ishinfurusatokan.info/pdf/aruku.pdf

 

 

9.維新ふるさと館 Museum of the Meiji restoration

 外観の写真を撮影するのを忘れてしまった。

これは少し入った部分にあるプロジェクションマッピングなどを楽しめるエリア。

IT技術はここにも進出している。古風な土地柄であると同時に、先進技術を取り入れることができる先進性を併せ持った土地柄だから当たり前といえば当たり前。

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 島津家は、守護大名時代からの薩摩という土地に加え、広大な海域世界を支配していた。海を通じて、海外の事情に精通していた。

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西郷と大久保を「情」と「理」という言葉で把握し、対比して説明している。

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維新ふるさと館でも、島津斉彬開明的な政策に関する展示があった。今回は、島津斉彬と薩摩の国際認識というテーマが深く刻みこまれた。

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今となっては信じられない戦い「薩英戦争」。もちろん知ってはいたが、その意義をもっと掘り下げて考えたい。

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プロジェクション・マッピングのコーナーにあった相撲マシーン。友人と二人で本日の最高をたたき出しました!アキレス腱が少しおかしくなったけど・・・(笑)。

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10.観光交流センター

Best place for a short berak for free.

これで友人に伝えていた、訪れたいスポットはすべてまわった。

まだ午後2時前だったと思う。友人と「これからどこに行こうか」と相談し、加治屋町の川向うにある「観光交流センター」に行った。

1Fにしか行っていないが、センターの内部は、きれいでひとやすみするにはぴったり。ここで帰りの高速バスの時間を確認した。受付の方に聞けば、パンフレットも出してくれる。

 

私「もう今からはよっぽどいい景色がないと写真はとらない」といった後、3分ぐらいで写真をとっていたので、笑っていた。どんな景色かというと、下を見てほしい。

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私が写真を撮影したのも納得の1枚であろう。全日程を終えて、この景色とさよならする時間が近づいてきて、少しさみしくなってきた。また日常に戻るのか。最高の旅行、最低の日常。お互い修士課程時代とは異なる日常を生きている。友人と話し合い、友人宅に連れて行ってくれることになった。

 

11.友人宅にて

年賀状で教えてもらっていた住所に着いた。不思議な気持ち。彼にとっては郷里にあたるこの土地。出会ったのは、また別の場所。2年間、勉学をともにした。新婚さんなので、奥さんに挨拶。

 

新たな家族が誕生するということで、本当におめでとう。人生いろいろあったが末長くお幸せに!と伝えることができた。

 

そうこうしている内に午後5時になっている。

高速バスは7時前の出発だから、そろそろ移動しないと。 

 

12.アイアイラーメン 東開店

 鹿児島最後の食事。少し悲しい。

友人はラーメンに連れて行ってくれた。大学院時代から、一緒にラーメンを食べに行っていた。鹿児島でラーメンを食べに行くという不思議な気分。

 

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13.鹿児島中央駅付近

友人に送ってもらい、鹿児島中央駅付近の高速バス乗り場まで到着した。前回の鹿児島旅行では、鹿児島中央駅が起点となり、行動した。なかなか立派な駅舎で、印象に残っている。今回は旅行の最後に少し通ったのみ。旅行に来る方は、一度訪れて見たら良いと思う。

 

6時50分台と7時ちょうど発のバスがあった。まだ6時40分ごろだったので、東急ハンズに急いで向かった。今回の鹿児島旅行の記録を忘れない内につけたかったので、前々から欲しいと思っていたモレスキンのノートを買おうと思った。ところが無地のポケットサイズのものはなかったので、あきらめて、バス乗り場に向かった。結局、帰ってからネットで購入した。事前に買って持っていけば良かったと思う。

 

14.鹿児島空港

高速バスで1時間ぐらい。鹿児島空港に着いた。飛行機が20分ぐらい遅れている。時間通りに着くことを前提として、帰りの予定を立てていたのだが、難しくなった。初めて乗ったピーチだったが、行きも帰りも遅れていて、予定を立てることが難しいと、つくづく感じた。

 

鹿児島空港のピーチの乗り場付近

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20時55分の出発予定だったのだが、21時20分ごろの出発になった。

おみやげもの屋をずっとまわり、時間つぶしをする。

鹿児島の物産は、すごい。物産も力強い。

 

15.関西国際空港 到着

やっと関西国際空港に到着した。機内で帰りのルートをあれこれ考えていた。出発前は、電車で帰れば安上がりだと思っていたし、時間的にも可能だと思っていた。だが、ピーチが遅れるので、もう間に合わない。電車は第一ターミナルだし。ピーチは第二ターミナル。

結局、行きと同じ高速バス。結構な人数で混んでいる。機内でチケットを買っておいて正解。

そのまま最寄りの停留所へ。なんとか最終電車に間に合った!タクシーを呼ばずに済んで一安心。さっきまで鹿児島に居たのに、いまは近くの駅。不思議な気分。深夜に帰宅しました。

 

今回楽しい旅行案内をしてくれた友人とその夫人に感謝!最高の旅行でした!

 

 

 

鹿児島旅行 一日目 平成三十年八月三十日(木) Trip to Kagoshima DAY 1

鹿児島旅行 一日目 平成三十年八月三十日(木) Trip to Kagoshima DAY 1

 

 

1.出発 Start

まだ夜も明けきらぬ頃、5年ぶりに友人に会うために、高速バスで関西国際空港に向かう。鹿児島旅行は14年ぶりである。バスには乗客が多い。

2.関西国際空港  Kansai International Airport

Terminal 2 Domestic

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1時間ぐらいで関西国際空港に到着するも、ピーチの搭乗口のある第2ターミナルまでは、第1ターミナルから10分ぐらいかかる。ピーチに乗るのは初めてのことなので登場手続きなどに不安があった。案の定、QRコードをかざしても、エラーが出たので、近くにいた係員に声をかけて対処してもらう。システムの移行期で、2つの予約番号が発生していたとのこと。元の予約番号とQRコードを印刷してもってきていたので、なんとかクリアした。

 

その後、トイレなどを済ませて、荷物チェックを通過し、搭乗口の近くのフロアで時間を待つ。

 

*平成30年9月5日 追伸

9月4日に台風21号が関西地方を通過し、関西国際空港が水没しているようだ。また、連絡橋に、風で流されたタンカーが衝突し、破損して使い物にならなくなったらしい。

私がこのタイミングで鹿児島に行くことができたのは、まさに天の恵みであった。8月30日より早いと、別の台風の被害に、またこれより遅くても台風及び関空の使用停止で、行くことができなかっただろう。

旅行が人生に与える影響を考えると、本当にありがたかった。

 

(旅行の参考)

行き:7:00出発➝8:10到着予定であった。

運賃:4290円+旅客サービス使用料410円=4700円

 

帰り:20:55出発➝22:05到着予定(実際は、30分ぐらい遅れた)

運賃:5650円+旅客サービス使用料360円=5650円

 

加えて、支払い手数料540円×2で1080円。

 

ピーチでチケットを買う際には、チケット代(運賃)以外にも、手数料や使用料が取られることに注意して下さい。

3.ピーチ Peach Aviation

機内に入るとかなり狭いと感じた。新幹線の自由席と比べても、かなり狭い。土管の中にシートを置いただけのような機内。狭い空間で仕事をするCAさんが大変そう。まあ1時間だからいいや。

なかなか発進しない。友達を待たせているのに。

鹿児島空港周辺の天気は雨」とのアナウンス。どうしよう。

 

narrow, tight, uncomfortable. But,it's ok, because the flight takes only 1 hour. 

 

4.鹿児島空港到着➝鹿児島中央駅

Kagoshima airport to Kagoshima chuo(central station of Kagoshima):About 1hour by bus.

約20分遅れで到着。すぐさま鹿児島中央駅行きのバスに飛び乗る。

 ものすごい雨が降ってきて、先行きが不安になってきた。荷物を軽くするために、折りたたみ傘しか持ってきていない。それに天気予報では1日目は晴れだった。

高速道路でもものすごい雨。

車内で帽子を取ろうとすると、持ってきた正露丸のにおいがものすごい。

鹿児島中央駅に到着。少し小雨になっていた。

友人からメール。指定された場所が分からなかったので、受付の人に尋ね、待ち合わせ場所へ。

車が止まっている。以前友人が住んでいたナンバーだったので、すぐに分かった。

2013年の3月から会っていなかった、私が修士課程にいた時代の友人と再会。

私も彼も印象が変わっていた。

 

5.知覧へ

鹿児島に着いたら行きたい場所として、伝えていた知覧へ向かう。

大学院時代はお互い車の運転をすることはなかった。基本、研究室と家の往復だし、私は免許ももっていなかったからである。

でも、車の運転がすごくうまくなっていて、びっくりした。知らない間に成長している。知識だけじゃなく、人間の幅が広くなっていることが友人としてうれしい。

 少しずつ晴れてきた。

6.知覧特攻平和会館

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前々から一度訪ねてみたいと思っていた。だけど、なかなか訪れる機会がなかった。

入場券を購入し、館内へ。

特攻で散華していった兵隊の顔写真が貼られている。10代~20代の人が多い。軍服に包まれた顔を見てみると、幼い。同じことをする必要はないが、over35の今の自分と見比べて情けなくなってきた。

友達と一緒だったので、さすがに泣きはしなかった。むしろ今の自分を情けなく感じた。

 零戦

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隊員が寝泊まりする「三角兵舎」

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7.知覧武家屋敷庭園群

薩摩藩の武士は豪傑で有名だから、一度武家屋敷も見てみたいと思っていた。この頃になると空も晴れ渡っていた。

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庭園に入る入場チケットを買い忘れて歩き始めたので、庭園には入っていないのだが、街並みだけでも十分楽しめる。

 

ここは無料で入れる屋敷。

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借景がきれいだ。

 

ただ歩いているだけで、最高だ。

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南薩はきれいな所。水もきれい。

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もうそろそろお昼の時間。友人にも用事があるので、昼食へ向かう。

 

8.開聞岳

途中「薩摩富士」と言われる開聞岳を眺める。

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 道中、風力発電をしている地区があることに気がついた。

また、車の通りが非常に少なかった。

 

友人「鹿児島に帰ってきて感じたのは、鹿児島の緑は力強いなーということ」。

なるほど確かに、鹿児島の自然は力強い。この風土の中から生まれてきた偉人たち。

 

9.唐船峡の流しそうめん:Flow Municipal Tosen Gorges Somen

  友人は私をもてなしてくれるために、いろいろ考えてくれていた。その中の一つが「流しそうめん」。来てみて納得。今回の一番の想い出になったぐらいだ。

 

家族連れが多く、地元の人で、平日なのに賑わっていた。この年になって、1人でこういうファミリー向けの施設に来ることがなくなっていたから、うれしかった。

 

市営の部分と民営の部分があるとのこと。地元の高校生たちのバイト先なのだろう。ういういしかった。甲子園のスタンドみたいな感じだった。

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写っていないが、家族連れなどを中心に、客はいっぱいいだった。

そうめんもおいしい。

 

*書くのを忘れていましたが、初めて鯉の刺身鯉こく(お汁)もごちそうになりました。マクロビオティック初級を習いに行った時には、中級になったら鯉の生き血を扱う授業があると聞いた(書いてあった?)ことがある。急性肺炎(クルップ肺炎?)に対する民間療法とのこと(正食士協会編『身近な食物による手当て法』正食出版、昭和58年、45-47頁参照)。

 

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もしかして君たちだったの?

10.ホテルにチェックインーホテル・グラン・セレッソ鹿児島

友人に用事があることから、市内よりのある場所で降ろしてもらい、市電で宿泊先のある高見馬場まで向かった。約30分ぐらいだったと記憶している。

 

今回選んだのはホテル・グラン・セレッソ鹿児島というホテル。鹿児島市内で一番新しいホテルのようだ。前回は鹿児島中央駅からすぐのJR九州ホテルに宿泊したが、今回は、大浴場があることと、ジムがあることからこのホテルを選んだ。

 

 

 

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デラックス・シングル(禁煙)の部屋

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TV横のデスク以外にも、ちゃんとデスクがある。

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ホームシアター」というモードがあり、無料で映画などのコンテンツが楽しめる。

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部屋の中に洗面台がある。ビジネスホテルでは、始めて見た。いちいち風呂場にいかなくていいから、便利である。

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お風呂とトイレが別々になっており、今までのホテルで一番良い。

よくビジネスホテルでは、トイレの横に風呂があり、カーテンを閉めて、お風呂に入るのだが、お湯をためて入ることが難しく、いつも困っていた。でもここは、湯船の外に排水溝があり、シャワーとお湯につかることが別々にできてとても良かった。大浴場がなくてもストレスがたまらない。

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トイレは湯船とは別の場所にある。今まで見た事のないビジネスホテル。

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このホテルはおすすめできるホテルだ。友達も外観を見て、褒めていた。

シャワーを浴びて、少し休む。

 

11.天文館ー鹿児島黒豚しゃぶしゃぶ「いちにいさん」

5時になった。友人と高見馬場で待ち合わせ。お酒を飲むから、ちゃんと電車。小さいことであるが、信頼できる。歩いてすぐの天文館へ。天文館は鹿児島一番の繁華街。

 

友人のすすめで、鹿児島黒豚しゃぶ「いちにいさん」へ。2Fにあるお店に。

 

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会っていない5年間に積りつもった話でもりあがった。

5時すぎに入って、9時過ぎまでいた。

 

友人によると「ここのしゃぶしゃぶは、ぽんずやゴマだれではなく、そばのつゆみたいなものとねぎでいただく」と言っていた。食べてみると本当においしい。「しめ」のそばもありお腹いっぱい。

 

鹿児島といえば芋焼酎。今回初めてしっかりと(?)芋焼酎を飲みました。フルーティーでおいしかったです。「芋のにおい」がするということを知りあいから聞いたこともありますが、今回飲んだ銘柄が良かったのか、単なるハーブというか、フルーティーな香りでした。特にしゃぶしゃぶとかと合わせると良いと思います。銘柄は忘れました。

 

レジの近くには、仕込み済みの豚しゃぶなどが積んであり、ディスプレイとして見てもおもしろい。

 

こんな良いところに案内してくれた友人よ!本当にありがとう!

 

さすがに疲れていたので、「しめのラーメン」には行けなかった。

鹿児島の繁華街といえば、天文館。夜の街を散策してもよかったのだが、もう疲れていたし、明日のこともあるから、ホテルに帰りました。

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 (写真の方向は、鹿児島中央方面です。逆方向が天文館です。)

 

 

 

 

12.ジム&大浴場

 グラン・セレッソ鹿児島にはジムがあるということをHPで確認していた。

ジムの場所は、大浴場の横にあり、部屋のキーを持っていないと入れない。

広さは10畳ほど。シューズは各自持参。

私もスポーツシューズと手袋を持参。

<マシーン>正確な名前は忘れたが、おおむね以下の通りである。

・腹筋(アブドミナル・マッスル・クランチ)

上腕二頭筋

 

・背筋

・ラットプルダウン

 

・ランニング・マシン×2

・ロープーリーロウ?

・レッグカール・レッグエクステンション

・レッグプレス

・チェストプレス?

 

さすがに疲れていたので、30分ぐらいで切り上げて、大浴場に入る。

ここの貴重品入れは、静脈登録なので、信頼出来る半面、少し時間がかかる。

 

大浴場は、人工炭酸風呂であり入りやすい。一日の疲れをとり、明日に備える。

 

「極左封建主義」(笑)の現在ー呉智英『日本衆愚社会』(小学館新書、2018年8月)

呉智英『日本衆愚社会』(小学館新書、2018年8月)

 

呉氏が学生時代から考察してきたような問題(ロシア革命文化大革命憲法、民主主義)から、最近世間をにぎわした話題(小保方氏、シールズ、ポピュリズム)までを扱ったものである。

 

久しぶりにうれしい本の出版だ。『サルの正義』や『賢者の誘惑』あたりを読んでいた頃を思いだした。もう呉氏は老年、私は中年となった。呉氏は私の父の世代にあたる。

 

自己の思想を「保守」ではなく、極左封建主義と規定している点にはユーモアと、時勢に流されない呉氏の矜持、さらに呉氏が若い時から老年まで失うことのなかった精神の核みたいなものを感じた。このネーミングセンス尊敬します。

 

このサイトにそのコラムが載っている。

news.biglobe.ne.jp

(以下、追記予定)

 キーワード:支配/被支配、革命/反革命、例外状況、統治

 

ポピュリズムについて

呉氏は1995年に刊行した『賢者の誘惑』においても、既に「民衆主義」に「ポピュリズム」というルビを振って教育者や教育学者を批判をしていた。また、現行の憲法を考える際に第9条ではなく、第15条第4項の「選挙人は、その選択に関し、公的にも私的にも責任を問はれない」という箇所を問題視し、「私が民主主義者・人権思想家に対して抱く根本的な疑問は、憲法を守れと言いながら、歴史への責任とか社会への義務とか人類の使命とか、何故平気で口走るのか、ということです。そんなことを国民に要求するのは、明らかに憲法違反なんです」(『賢者の誘惑』双葉社、1998年、120頁)。

 今回の『日本衆愚社会』においてポピュリズムに関連するのは「いまこと「選挙権メ免許制度」を」(46頁~)や「「ポピュリズム」すなわち愚民主主義について」(56頁~)である。

 

日本衆愚社会(小学館新書)

日本衆愚社会(小学館新書)

 

 

私の西郷隆盛像の形成過程ー平成30年8月15日(水)

私の西郷隆盛像の形成過程

 

今年の前半戦が終わった。後半戦は、鹿児島旅行から始まる。

もうすでに人生半分を過ぎていると自覚していることは何度も書いて来た。

今年以外に良いタイミングで鹿児島に行き、西郷隆盛について書く機会などなかなか訪れないかも知れない。 

一生に一回のタイミングだと思い、ここに私の西郷隆盛像を書き残しておきたい。

 

私はもちろん「大西郷」の偉大さを認めることにやぶさかではない。だが、これまでどちらかというと、山岡鉄舟の方が好きであった。それは大森曹玄氏に影響を受けてのことだ。

 

西郷隆盛の方はどうだろうか。私の西郷隆盛像は、歴史ドラマなどの影響を除けば、葦津珍彦氏の『永遠の維新者』によって形づくられたと言えよう。だから、まずこの本について書く。

 

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西郷隆盛肖像(「近代日本人の肖像」より)

葦津珍彦著『永遠の維新者』(葦書房、昭和56年)

もともとは昭和50年に二月社から出版されたもの。現在は、葦津事務所から刊行されている。蛇足であるが、葦書房は福岡にある出版社で、葦津事務所は鎌倉に葦津氏の御子息が設立した出版社である。「地方出版社」が重要な本を出版している好例である。

 

*著者について

葦津珍彦氏は、明治42年、葦津耕次郎氏の長男として、福岡県に生まれた。筑前筥崎宮の社家。青年時代、バクーニンクロポトキンアナキズムからマルクスレーニンまでの社会主義に対する情熱を持っていたが、父の感化により神道的な思想を持つにいたる。戦前、志士的な活動家として過ごしたが、戦後、東京裁判の下、父祖の歴史が黒一色に塗りつぶされて行くことに憤慨し、近現代史を本格的に研究し始めた。

 

したがって本書は単なる歴史家や文筆家によって書かれたものではなく、自分も西南戦争で戦って見たかったという情熱を持った人物によって書かれたものである。

 

「私は、正直に告白すれば、この「永遠の維新者」という一文を草しながら、生きて西郷ほどの人物を師として、その師とともに、決起の機に会して力戦敢闘、その生涯を燃やしつくした戦没者にたいして、羨望の情を禁じがたいものがある」(前記より)

 

*本書について

構成 主論文の「永遠の維新者」があり、「従たる参考資料」として五篇の論文が収録されている。主論文は、『新勢力』の昭和50年3月・4月号に発表されたもの。

五篇の論文は、Ⅱ、Ⅲに区分されて収められている。

Ⅱ.孤戦と連合‐内戦の政治力学:「明治新政権にたいする抵抗の思想と潮流」、「禁門の変前後」、「薩長連合の政治史」

Ⅲ.明治の精神-明治国家の形成とナショナリズム:「維新史における天皇意識」、「天皇制と明治ナショナリズム

ジャンル 西南戦争における西郷隆盛を論じた史論

 テーマ 明治維新以後の我が国の歴史を、西郷隆盛の路線と大久保利通らの路線との対比で捉えて、西郷への共感を主張する。

「永遠の維新者、西郷隆盛は、悠久なる東洋政治哲学の確たる理想に根底をもち、それを追求して、世界に比類ない近代統一国家の建設のために全生命を投入した、雄偉なる史上の英雄である」(再刊の辞より)

「その西郷に相対した大久保利通は、卓抜なリアリズムをもって、近代西欧近代権力の本質をつかんで、日本の急スピードの高度発展のコースを直視する先駆となった」(同上)

「永遠の維新者」とは、明治維新後、政府の最高権力の座にあっても、あぐらをかかず、腐敗することがなかった西郷隆盛を評した言葉なのである

概観

第一章 征韓論争(p.11~

西郷隆盛が、その門下の同士とともに、城山に斃されてから、すでに一世紀の時が流れすぎた。しかしいまもなお、西郷を『永遠の維新者』としてあおぐ精神は、脈々として生きつづけている」(p.11)という一文から始まる。

 

葦津は、明治の政治史を、西郷的な東洋的政治路線と、大久保的な近代国家主義的権力思想との対立であると把握する。この両者が対立し、混合されつつ進行していったのが、明治の政治であると言う。

葦津は西洋列強との接触後の我が国の政治思想を二つの潮流に分ける。「東洋的王道インタナショナル」と「西欧近代の政治思想」である。前者の代表が西郷隆盛であり、後者の代表が大久保利通である。両者ともに薩摩藩の出身なのである。

その二人の間で争点となったのが、「征韓論」であり、「西南戦争」なのである。

 

西郷の継承者が頭山満であり、大久保の継承者が伊藤博文山県有朋であるとする。

 

第二章 反専制政府諸勢力の合流(p.45~)

この章では、西南の役前後の精神状況が明らかにされる。西南の役には、復古主義者から、急進的な民権主義者まで様々な思想潮流のものが集って来たのである。そこで葦津はこれら様々な思想が共同戦線を構築し得た理由を探ろうと「攘夷開明の思想、復古主義の思想、国権論‐民権論の思想等について、その由来と思想の論理」とを解明するのである。

 

第三章 西郷、決然と立つ(p.68~

 この章では、西郷が決起するまでの状況を扱っている。主役は鹿児島に帰った西郷だが、もう一方の主役は、東京にいる大久保利通及び川路利良である。

 大久保は、西郷と他の鹿児島人士を区別して、他を除こうとした。川路は西郷をも暗殺しようとして、私学校への挑発が繰り返された。

 葦津は川路利良が西郷以下桐野らの暗殺を命じたという前提で論を進めている。

「本文の筆者は、大久保が西郷その人の命じたとの説には疑念を残すものであるけれども、先学の諸資料を検討した結果として、川路大警視が西郷以下の暗殺をふくむ攪乱計画を命じたのは事実だと推した上で、以下の論を進めていく」(p.80)

  西郷は私学校の学生が、陸軍の火薬庫などから武器弾薬を掠奪したことについては嘆いたが、政府側が暗殺隊を送り込んできたことに対して、詰問するために決起したという(p.82)。

  西郷隆盛に「決起の名文」がないことについて、福澤諭吉、川崎紫山(黒竜会『西南記伝』の著者)、徳富蘇峰、渡辺盛衛らが残念であるとしているのに対して、葦津は反対意見を書いている。それが『永遠の維新者』を書いた大きな動機であるという。

「西郷が、一片の届書きを出しただけで、名文の反政府挙兵大宣言を書かなかったのを、たれもかれも拙かったとする点で、碩学史家の史論は一致しているといっていいようだ」(p.101)。

  

第四章 西南役所感

 この章では、西南の役の戦局についての葦津の感想が述べられる。

葦津は西郷らの同士的な戦闘精神を讃える。だが、西郷らには「近代国家内戦の法則」の下において負けるべくして、負けたとも言う。

「西郷は、遠謀深慮の英知の人ではあったけれども、参議下野後三年の間に充実した政府の、近代陸海軍の物力についての知識が欠けていたのではあるまいか」(p.111)。「かれは政治思想戦では政府に勝つだけの実力があったし、それを自信したのはいい。しかし本格的な近代武装権力との新しい軍事的内戦の戦術については、知識と準備を欠いていたとみとめざるをえない」(p.111~112)

特に海軍力を有していなかったことは、鹿児島の地理的な条件として、致命的なものがあったとも指摘している(p.110)。

フランスで軍事学を学んできた村田新八のような人物も味方にはいたのだが、それはあくまでも国軍対国軍との戦闘を扱ったものであった(p.112)。

 

  まとめ

西郷隆盛の思想と行動について

「西郷は、むしろ日本流漢学の仁政主義者と呼んだほうがいいだろう」(p.53)。

西洋文明への関心 

「西郷は、その藩主島津斉彬にもっとも深い思想的感化をうけた。斉彬は当時まれにみる洋学開明派である。西郷は決して西洋文明の長所を知らないのではなくて、非常につよい関心がある。安政時代に橋本左内と交わり、その後は佐久間象山、勝安房などの開明派の説をきいて、それを高く評価している。洋書は読まなかったが、幕末時代には北京、上海あたりで出版された洋学知識の漢訳書を愛読している。維新当時からは洋学者福澤諭吉の新刊書なども、みずから精読したばかりでなく、知友にも読むことをすすめている」(p.19)

 

西郷の文明観南洲神社社務所発行『西郷南洲先生遺芳』の口語訳より)

「文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえていう言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることをいうのではない。世の中の人のいうところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮(文化の開けないこと)なのか少しもわからない。自分はかつてある人と議論したことがある。自分が西洋はやばんだと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。いや、やばんだとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでにやばんだと申されるのかと力をこめていうので、もし西洋がほんとうに文明であったら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説きさとし、もって文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対する程むごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは晃間にやばんであると申したところ、その人もさすがに口をつぐんで返答できなかったよと笑って話された」(南洲神社社務所発行『西郷南洲先生遺芳』、p.26)。

 

西郷南洲遺訓』のこの一節について葦津は、「この有名な西郷の文明論は、ふかく銘記されねばならない。それは東洋の王道文明を高くかかげて、滔々たる欧米帝国主義に対決する維新攘夷の精神の大道を示している」(p.20)と語る。それが頭山満孫文の思想の源流にあると主張するのである。

ここでも葦津は、我が国近現代の歴史を「東洋王道」と「西欧の覇道」の対決であると見ていることが分かる。

 

「決起の名文」がないことについて

「文書には残さないで、ただ黙示したことが、人生には非常に多い」(p.102)「西郷の『黙』には千鈞の重みを感ずるものである」(同頁)。

 

明治時代の国際政治

「明治時代がすすむとともに、日本人の政治思想も、東洋的王道よりも西欧近代政治学の影響がつよくなっていく。この二つの異質の精神が、鋭く相対決したり、時によっては混合されたりして、微妙複雑に進展していったところに、明治日本の国際政治があり、軍事外交があった」「西南の役こそは、この二つの精神の大潮流が最初に相対決した壮大な内乱であった」(p.42)

 

 大久保利通(p.31)

 

副島種臣

「西郷が、当時の政府要人のなかで高く評価した人物に、副島種臣がある」(p.35)。

「副島という人は開国日本の外相として、新しい国際法も国際儀礼も大いに勉強したが、重厚な君子であって、洋風開明派のような軽薄さがまったくない」(p.37)。

 

論点

維新と革命について(p.14

今日でも、「大阪維新の会」などが存在していることからわかるように、「維新」という語は、たまに見ることがある。そもそも「維新」とは、どのような意味なのだろうか。 

「同じ変革といっても、『維新』と『革命』の語の概念については、私は現代思想を論ずる場合に、きびしく区別区分している」(p.14)

 

 

*「列島強靭化」の提唱で有名な藤井聡氏は、「平成の日本人はとかく『維新』や『改革』が大好きだ。一部の政治家は「維新」だの「改革」だのという勇ましい言葉を口にさえすれば、票が入ると思っているのか、選挙の度にとにかく「改革だ!」「維新だ!」と言い放つが、それは詰まる所、日本人が「維新」や「改革」が大好きだから」(藤井聡『維新改革の正体』産経新聞出版平成24年、p.3)

と述べて、規制緩和新自由主義的傾向のある政策などを批判的に取り上げる。橋本内閣の「行政改革」、小泉内閣の「構造改革」、大前研一氏の「平成維新」、橋本徹氏の「大阪維新の会」などが挙げられている。

葦津を参考にして主張してみれば、それらの動きは明治維新の中でも、大久保・伊藤らの西洋列強風の路線を今風に置き換えたものなのである。東洋王道的な「維新」とはそもそも異なると考える。

 

「東洋的王道インタナショナル」について(p.19)

再読して特に気になった点は、ここである。

1.葦津は「西郷に端的にみられるような、東洋王道の国家と言う思想を理解するためには、民族や主権にたいする考え方の、今日とはよほど異なることを知らねばならないのである」(p.37)と主張する。

 

1´.「中国民族革命の孫文が『三民主義講話』のなかで語っているように、もともと東洋の政治思想(孔孟の思想)というものは「天下の仁政」(世界の人民のための良い政治)を重んじたのであった、民族・政府の独立・主権について、二十世紀人のような思想はなく、むしろインタナショナルである」と指摘する(p.37)。

 

1´´.さらに「異民族の仁政」よりも、同じ民族の統治でさえあれば苛烈専制の暴君の政治のほうがよい、などという思想は、まったくない」(p.38)とも主張している。

 

2.上記のような考え方の源流を領土的野心による侵略と仁政のために暴政の国を放伐すること区別し、後者を義とした孟子に求めている。

 

3. そして西郷亡き後の継承者たる頭山満の名を挙げ「救国救民の革命戦士にたいしては、その人格を重んじ、その自主性を毫もおかすことなく、礼をもって相対したけれども、清韓王朝の専制政府にたいしては、その独立主権の不可侵を重んじたわけではない」(p.40)と例示している。

 

4.素朴に考えて、このような論理を肯定することは、両刃の剣となるのではないだろうか。日韓併合をある角度から正当化できるのみならず、逆にこの論理によってアメリカの占領や日本国憲法の制定を補強できることにもなるのではないか。近くはイラク戦争時のアメリカのネオコンに共通性のある論理が見られた。主権侵害、先制攻撃をいとわない「民主主義体制への変革」(レジーム・チェンジ)である。とはいえ私の指摘など、葦津は百も承知なのである。

 

5.葦津は言う。「東洋インタナショナルともいうべき東洋王道主義にもとづく、このような中国人や韓国人に対する仁政、連帯の精神が、一歩を誤ると内政干渉ともなり、侵略、征服ともなる」(p.40)。

 

そう認めつつも葦津は、明治の東洋インタナショナルが西欧の植民地帝国主義と同罪と言えないという。「その思想の心理と論理とをあきらかにしなくては、明治の思想の歴史は、わからないであろう」(p.41)

そして、征韓論が植民地征服とは異なるという『代表的日本人』での内村鑑三を引き合いに出し、自己の論を補強している。

もちろん葦津はその後我が国の対韓政策が、東洋的王道よりも西欧近代政治学の影響が強くなっていったことは認める。だが、明治時代の我が国の国際政治は、これらの対立や混合から生まれたものであると主張する(p.42)。

 

 (作成中)

 

 

徳富蘇峰の主張との関係 

文中、葦津は二度にわたって徳富蘇峰の西郷評を批判している。 

 (1)「決起の名文」がないことについて(p.100)

(2)「西郷の絶筆」たる軍令について(p.118)

 

(以下、作成中)

 

 復古主義について

 復古思想は、明治維新を推進した重要な思想である。

 

「復古派には、詩人的な直感の鋭さと情ねつ的な行動力とがあった。だがかれらが、西欧的近代化の道を真に克服するためには、みずからが開明派に劣らないだけの洋学知識をもち、その洋学の強みと弱みとを知りつくす必要があった。知らずしては、相手を克服することはできない。復古派は近代西欧と洋学派の弱点を「直感した」ーその直感は決して誤っていたというのではなく、一世紀の実験ののち、今日にいたって、その直感の存外に正しかったことが現代の一部の識者にみとめられてきたーけれども、当時のかれらには洋学についての知的理解がなく、まったく無知に近かったといっていい。すくなくとも開明派の洋学知識には遠く及ばなかった」(p.51) 

 

「復古派の弱みは、精神や思想の上ではきびしい抵抗を示しても、新しく国際社会のなかに投げ入れられた日本国が、もとっも緊急とする「政策」についての有能さを示しえなかったことだ」(p.52)

 「復古派は、決して有能な国家建設者ではなかった」(p.53)。

 

「西郷とはいかなる人物か。明治維新政府の重大な進歩改革は、藩〔ママ〕籍奉還でも徴兵令の施工でもすべて西郷の同意によって、西郷の実力的支援によって可能であったといいうる。それは、かれは進歩的であったといいうるのだろうか。これは問題である。かれはこれらの進歩的改革について、進歩派の提案を慎重に聞き、これを理解して同意し、支援した。かれには進歩を理解する見識があった。しかしかれは決して進歩の先駆的提案者ではなかった。かれは心情的には、むしろ復古主義者に共感する素質をもっていた」(「明治新政権にたいする抵抗の思想と潮流」p.151)

頭山満について(p.40)

「西郷亡きのちに、多くの人からその精神的継承者と評せられたのが頭山満である」(p.40)

 

 

 

永遠の維新者 (「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ (2))

永遠の維新者 (「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ (2))

 

 

 

永遠の維新者 (1981年)

永遠の維新者 (1981年)

 

 

 

附録

今村均・元陸軍大将の岳父・千田登文、西郷の首級を見つけた

『日本人の自伝』(平凡社、1981年)より

今村均・元陸軍大将は私が旧軍人の中でも私が一番敬意を抱いている軍人である。明治十九年の生まれであり、大東亜戦争時には、陸軍中将から陸軍大将の職責を担った。インドネシアからラバウル方面での司令官であり、ラバウルで敗戦を迎えた。オランダからは無罪判決を受けたが、オーストラリア軍事裁判によって禁固10年の判決を受ける。祖国・巣鴨で服役する予定であったが、自ら志願してマヌス島(ニューギニア付近の島)に赴き、3年5カ月服役し、我が国に帰国し、残りの刑期を巣鴨で終えた。

 

その今村均氏の妻の父親が、西南戦争の際に、部下の前田一等兵が見つけた西郷の首級を山県有朋らに差し上げた人物なのである。山県は「運命とは申せ、変わりはてたお姿にお会い申します・・・」と涙を流したという(上掲書、p.415)。

千田登文氏は石川県民、金沢市民として県民代表のような存在だったとのこと(p.411)。

 

未読であるが、歴史小説家の伊東潤氏が『西郷の首』(KADOKAWA、2017年)という本で西郷の首級を山県らに差し上げた千田氏と大久保利通を殺害した石川一郎氏らを描いているようだ。現代の小説は普段ほとんど読まないが、一度読んで見たいと思う。

 

西郷の首

西郷の首

 

 

 

イエローハットの創業者・鍵山秀三郎氏は『人生の作法』(PHP研究所、2009年)「第七章 教養の作法」で、最も尊敬している歴史上の人物として西郷隆盛を挙げている。その理由として、西郷隆盛が生涯修行を貫き通したからであるとしている。

 

人生の作法

人生の作法

 

 

Ikkyuji-temple, a.k.a Shuon-an in South Kyoto August 7, 2018.

I visited Ikkyu-ji(Zen-temple) in August 7. This is my second time.

Ikkyuji-temple belongs to the Rinzai-sect(Daitokuji-group). Located in South Kyoto.

 

Ikkyu is a radical zen monk in Muromachi Period.

 He grasped the essence of the life and death.

 

The Approach in mid Summer.

In Japan, it's very hot this year. But, this place is little bit cool.

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Mossy, but nice place.

 

 

Zen-garden.

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 Breathtaking!

 

 

I love sky.

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the use of natural scenery aroud the temple. 

 

Ikkyu literally mean is "a short rest".

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It's a very funny.  Clean up the dust inside of your mind.

 

参考文献:田邊宗一・永野一晃『一休寺』(淡交社、1995年)